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読書ファイル002「夏の庭」湯本香樹美 著


 

8月の終わり、福田百貨店の中庭に立った。

 

雑草が伸び放題になっているこの夏の庭は、僕の心の何を映しているのだろうか。

そして、ぽっかりと予定の空いた一日は、僕に何を促しているのだろうか。

 

「何もかもみんな忘れてしまったように、ただそこに草があるから抜く。」

 

それは瞑想にも似た無の時間。ただ草を引くという単純作業は、目の前の〈今〉だけを見つめさせてくれる。

そしてふと、午前中に読んだ本の一節が頭に浮かぶ。

 

「死んだら、どうなるんだろう」

「それでおしまいなのかな……それとも」

 

 

『夏の庭』との再会

今日9月3日は、夏休みの終わりを告げる始業式の日。そう、つまり夏休みの宿題を提出する日だ。僕は今年、夏休みの宿題としてある本を読むと決めていた。それが、ふと立ち寄った書店で目に入った小説『夏の庭』だ。中学生の僕の心に小さな傷をつけた本との、二十数年ぶりの再開だった。

 

 

あらすじ

物語は、人の死に興味を持った少年たちが、実際に人の死を見てみたい衝動に駆られ、今にも死にそうな独居のおじいさんを見張って毎日観察することから始まる。そのうちに、おじいさんと少年たちの間に交流が生まれ、お互いに生きる上で失っていた大切な何かを獲得していく。しかし……。

 

心がほっこりして少し寂しくなるような、そんな小説だ。

 

大人になって分かったこと

いま改めて読んでみると、少年たちの気持ちだけではなく、おじいさんや親の気持ちにまで心を馳せられるようなっていて、ちょっと新鮮だった。多少なりとも大人になったという成長の証だろうか。いや、そんな大層なものではなく、僕も歳をとったというただそれだけのことだろう。中学生の僕には、大人の気持ちまでは分からなかっただけだ。

 

それに、大人になった今もまだ分からないことはたくさんある。草を引きながら頭に浮かんだ小学校6年生の主人公の言葉。「死んだら、どうなるんだろう?」というその素朴な疑問に対して、大人になった僕が持っている答えは、「死んでみるまで分からない」という何の変哲もない答えでしかない。小学生6年生が持っているだろう答えと大差はなく、子供の頃の僕が聞いてもガッカリするだろう。

 

「死んでもいい、と思えるほどの何かを、いつかぼくはできるのだろうか。たとえやりとげることはできなくても、そんな何かを見つけたいとぼくは思った。そうでなくちゃ、なんのために生きているんだ。」

 

大人になった僕もまた、少年が抱くのと同じ疑問を抱き続けている。大人になって分かったことは、「人生で本当に知りたい謎は、大人になってもその多くが分からないままだ」ということだ。

 

連合読書会と読書感想文

なぜ『夏の庭』が僕の心に消えることなく残っているのか、その理由は2つある。1つはこの本を最初に読むことになったそのきっかけだ。

 

連合読書会の課題図書『夏の庭』

中学生の頃の僕は、本とは全く無縁だった。にもかかわらず、なぜか市立中学校合同の《連合読書会》という読書家しか集まらないであろう行事に、学校の代表として選ばれた。もし僕を代表に選んだ先生に会うことがあったなら、再会の挨拶の次にその理由を聞いてみたいぐらいに、僕にとってはいまだに大きな謎である。

 

その時の課題図書が、この『夏の庭』だった。

 

今でこそ自主的に書評を書いてしまうほど本好きになった僕だけれど、当時の僕は今と違って本などという面倒臭いものは全く読まなかった。多くの子どもたちがそうであったように、本をまともに読むのは年に1度、半強制的に読まされる夏休みの宿題「読書感想文」の時だけだった。「子どもの頃に読んだ本は?」と聞かれたら、頭に浮かぶ本はただ1冊、この『夏の庭』だけである。それぐらい本とは縁がなかった。あの当時は、親友とサッカーボールを蹴るか、スーファミで遊ぶばかりが人生だった。

 

そんな具合に、本の「ほ」の字もない人間が学校の代表として選ばれたのだから、当の本人にとっては謎でしかない。僕の心を納得させている合理的な推測は、「夏休みに塾も行かず暇そうで、学校の代表で表に出しても問題を起こさない真面目な生徒は…」という消去法により「あ、黒田君か」という理由で選定されたのではないかと踏んでいる。読書には全く自信はなかったけれど、真面目さだけは自他共に認める黒田君の代名詞で自信があった。そんな訳で、僕の人生で解き明かすことの出来ない(他人にとってはどうでも良い)謎とともに、『夏の庭』は僕の心に残る本となった。

 

そういえば、昔から家には親父の本がたくさんあったから、本自体は身近な存在だったのだろう。ただし、僕をはじめ家族の誰一人として親父の本に興味を持つことはなく、本はただ狭い団地の狭い部屋を占領する邪魔者でしかなかった。だから部屋を模様替えするときには決まって「邪魔だから親父の本捨てちゃおうよ!」と姉貴と言っていたものだ。

 

人生に本を加えた『夏の庭』

いくら普段は本を読まないと言っても、この時ばかりは本を読み込んだ。学校の代表として連合読書会に参加しなくてはいけないのだから、真面目な僕としては当然である。しかし、この時全く想定外なことが起こった。

 

人生で初めて『本』に感動させられたのだ。

 

読み終わった後は、心にぽっかりと大きな穴が空き、寂しさと戸惑いと興奮が相まった不思議な感覚に襲われた。その入り交じった複雑な気持ちをどう処理して良いか分からず、しばらく時が止まったような感覚だった。それまで本を読んでもそんな感情が芽生えたことはなく、不意に受けたその衝撃にただ戸惑うだけだった。

 

僕の人生に『本』が加わったのは、きっとこの夏。

この『夏の庭』だ。

 

しかし幸いなことに、その昂(たか)ぶって処理の仕方がわからない感情を身体の外に出すための機会が、その時の僕には用意されていた。そう、なぜ選ばれたか分からない連合読書会である。

 

連合読書会の記憶

連合読書会で集まった各校の代表は、みんなとても優秀に見えた。普段は本を全く読まないという顔つきの人はいなかった(たぶん一方的な思い込みなのだけど)。普段の僕なら、アウェー感満載のその場所で萎縮してもおかしくなかった。けれどあのときの僕は、本を読んで心動かされたという人生初の高揚感により、その場所にいることを自分で認められていた。何より、あの本を読んだみんなが、どのように感じたのかを話し合ってみたい気持ちでいっぱいだった。

 

だが、僕の『夏の庭』を取り巻くエピソードの中で、おそらく最も肝心な要点となるはずの連合読書会。その場でどのような話し合いがなされたのかを、残念ながら全く覚えていない。記憶にあるのは、机を四角く囲んで話し合った教室の光景と、とても満足して帰ったことだけだ。僕の人生はいつもこの調子なのだ。大切な記憶は日に干した洗濯物の色のように薄らいで行く。数年前までは覚えていた記憶も、気が付いたときには薄くなり、知らぬ間に消え去っている。そんなことがたくさんある。

 

読書感想文と小さな傷

その夏の読書感想文は、もちろん『夏の庭』を書いた。小学生の頃から、原稿用紙を文字で埋めるだけの無難な読書感想文を書いていたけれど、この年になってはじめて、本で心が動かされた自分の気持ちを素直に書き落とした。

 

そんな僕の充実感が投入された読書感想文だったのだが、一つ事件が起こる。それは、読書感想文を提出して数日後、僕を連合読書会の代表に選んでくれた先生とは別の国語科の先生から浴びせられたひと言である。

 

「黒田君は連合読書会に参加したのに、読書感想文はあの程度なんやね」

 

それは、自分自身の感触とは真逆の評価であった。人生で初めて本に感動し高揚感を得た体験そのものも否定されたようで、その言葉はグルグルと頭の中を回り続けた。『夏の庭』が僕の胸にぽっかりと空けた大きな穴まで、粗雑に埋め戻されるようだった。

 

その時の理解されなかった寂しさ、悔しさ、悲しさ、そして期待に応えられなかったという申し訳なさや情けなさ、そんな無数の感情が引っ掻いた小さな傷たちが僕の中には未だ残っている。

 

僕がこの夏、『夏の庭』という本を二十数年ぶりに手に取ったもう一つの大きな理由は、心に残ったその小さな傷なのだ。

 

数学部の思い出

話は少し逸れるけれど、僕の中学3年間の部活は数学部だった。数式の美しさや数字をひたすら究明する部活…ではなくて、名前だけが数学部なだけで、実態はパソコン部だった。

 

親父の影響力

なぜその部活に入ったかというと、小学生の時に「これからはパソコンの時代だ」と言っていた親父が一言が頭の片隅にあって、中学で部活を選ぶときその言葉に影響を受けて数学部を選んだのだ。ちなみにその頃、僕が親父に持っていた印象は“すぐ怒る面倒くさい人”であり、好きか嫌いかといえば割と嫌いのカテゴリに入っていた。ただ、これは自分でも不思議なのだけど、圧倒的にお母さん子であったはずの僕が、高校を選ぶとき、田舎暮らしをするとき、何かにつけて人生の岐路で進路を決めるときには、親父の何気ない言動が効いているから面白いものである。いま僕の人生に本があるのも、きっと団地の狭い部屋を占拠し続けて邪魔者扱いされていた親父の本のおかげなのだろう。

 

さて、これからの時代の最先端の人になるべく期待を込めて入った数学部だったが、なぜか誰もパソコンを教えてくれる人はおらず、大いに期待ハズレだった。顧問は滅多に顔を出すこともなく、先輩は居たのか居なかったのかすら覚えていないほどに記憶の欠片もない。ただし、放課後にパソコンルームという校内で唯一エアコンが効いた超VIPルームで、自由にパソコンを使ってお絵描きやゲーム三昧に浸れる中学生にとって“この世の楽園”のような部活ではあった。ただそれが部活といえるのかといえば、当時すでに「NO」だとは思っていた。

 

そんな数学部だったので、案の定大した技術を身に付けることは出来なかった。僕の中にわずかに残ったのは、パソコンルームの独特の匂いと、数学部であったという謎の自負心と、頻繁にフリーズした富士通FM-TOWNSのダークグレーのマシンの再起動の方法くらいだ。ただ多くの中学生がおっかなビックリ触っていたパソコンへの苦手意識は取り去ってくれたし、高校で3D-CADを習得する際にパソコン慣れしていたことは大いに役に立った。それが大人になった今も3D-CADで建築パースの仕事を受ける道を作ってくれたのだから、“親父の一言”も“この世の楽園”も捨てたものではなかったと思うのである。

 

健全で不真面目な部活動

あまりにフリーダムな部活だった。ある日、ジャンケンをして負けた人が指令に従うという部活動(?)を後輩の女子数人とやっていた。いわゆる王様ゲームである。もはや数学もパソコンも関係ない不真面目な部活動だ。ただ指令といっても、シッペやモノマネという程度の健全な王様ゲームだったのは、地味な数学部が故だろう。しかし、その日の最後に一人負けした僕に課された指令は「壁に貼ってある女性のポスターにキスする」という思春期の少年にはやや屈辱的なものだった。先輩にも一切の配慮もない指令を出した後輩女子の名前も顔も忘れてしまったけれど、姉御肌の強気な女子だったことは覚えている。拒否したところで見逃してくれるタイプではない。観念した僕は、クルクル回る不安定なパソコンチェアにつま先立ちをして、天井近くの壁に貼ってあったポスターの女性にキスをした。素早くイスから降りた僕の顔は、真っ赤になっていて指を差して笑われたが、パソコンルームはその日一番の盛り上がりを見せた。実際はキスしたフリをして僅かに触れていない“エアキス”だったことをいま初めて白状するけれど、それでも顔が紅潮するぐらい当時の僕はシャイな男子中学生だった。

 

その健全で不真面目な部活動を共に楽しんだ後輩の女の子から、後に告白されることになる。ただし、手作りクッキーを焼いて家まで告白しに来てくれた後輩に対して、「興味がないから」といって玄関先で断った僕は、いま考えるとひどく無神経な奴だった。その子が帰った後、家の奥で聞き耳を立てていた母親に「あんた冷たい奴やなぁ…」としみじみ言われたが、「(オレにも別に好きな女子がおるんやから仕方ないやん)」としか感じていなかった。その時、その子はどれだけ傷ついていたことだろう。ただ、その時の態度を反省出来るようになるのは、高校時代に自分が同じ目にあってからのことだ。

 

突然の告白から数日後、その子と仲が良かった姉御肌の後輩に呼び出され、すごい剣幕で怒られた。僕はその時どんな受け答えをしたのだろうか?その後、僕は後輩たちとどう接していたのだろうか?今となっては何も思い出せない。

 

この数学部時代の小っ恥ずかしい話を、なぜ唐突に挟んだのかは実のところ僕にも良く分からない。ただ頭に浮かんでしまって以降どこへも行ってくれず、もやもやと梅雨前線のように停滞し続けるこの思い出を、書いて排出するほかなかったのである。思うに、心に与えた傷は、与えた側の心にも無意識に残り続けるということを気づかせたかったのだろうか。もしくは、いずれ忘れてしまうであろうこの些細な記憶を、失ってしまう前に文字で残しておきたかったのかもしれない。

 

僕が見つけるのを待っている何か

書店には、夏休みフェアでたくさんの文庫本が並んでいた。その中に『夏の庭』をみつけた瞬間、目が離せなくなってしまった。

 

あの夏の、あの『夏の庭』

もはや無意識に手に取られたその小さな文庫本は、触れた指先から腕へ、そして頭から足先まで僕の身体の中をジワッと駆け巡り、身体から皮膚感覚を消していった。そうしてあのひと時、僕は中学生の僕に出会った。ずいぶん昔に忘れてしまっていた心の傷に、再び出会った。あの頃の感覚をまとった僕が、そこに立っていた。そして、僕はもう一度、あの『夏の庭』と向き合わなければいけないと強く思ったのだ。この偶然のような必然のような出会いと体験があって、『夏の庭』が二十数年振りに、再び僕の夏休みの宿題となった。

 

「この世界には隠れているもの、見えないものがいっぱいあるんだろう。虹のように、ほんのちょっとしたことで姿を現してくれるものもあれば、長くてつらい道のりの果てに、やっと出会えるものもあるに違いない。僕が見つけるのを待っている何かが、今もどこかにひっそりと隠れているのだろうか。」

 

そうなのだ。“僕が見つけるのを待っている何か”は、中学生の頃からずっと僕の中に隠れていて、この時を待っていたのだ。そして十数年ぶりに、書店で姿を現した。『夏の庭』という文庫本の形で。

 

そうして、大人になった僕がいま必要とする言葉と、出会わせてくれた。

 

忘れる記憶

僕にはひとつ、小さくも大きい悩みがある。それは「忘れてしまう」という性質だ。家族の大切な思い出も、忘れたくない大事な出来事も、お店のお客さんの顔や名前もなかなか覚えられずに忘れてしまう。別に病的なものとかではなく、比較的忘れっぽい部類の人間というだけなのだが、本人には大きな悩みなのである。たぶんその原因は2つで、他人への関心が薄いのと、物を考えすぎる性格が故にその場の出来事に集中していない…ということだと自己分析している。

 

以前こんなことがあった。結婚前に嫁さんが僕にくれたプレゼントの紙袋を大事にとっていたのだけれど、引っ越しの際に邪魔になるとの理由で、その紙袋を捨てるように言われて揉めたことがある。僕としては、プレゼントを貰った時の大切な思い出を忘れたくなかったので、記憶を紙袋に託して保管していた。その紙袋を見れば、普段忘れていた記憶も思い出すことが出来た。僕にとっては、ただ紙袋を捨てるということ以上に、その思い出もろとも捨てるように迫られたようで辛かった。今ほどまだ相手のことをお互いに理解出来ていない頃だったので、嫁さんにはなかなかその気持ちを理解して貰えず困ってしまった。自分でも思いもよらなかったけれど、悲しくてポロポロ泣いた。頭で記憶しておくことが苦手な僕にとって、エピソードが詰まった物や場所は、物理的な記録媒体であり、メモリーカードなのだ。それを失うということは、記憶を失うのと同じだった。

 

ただの書評のはずが、こんなにもプライべートをさらけ出した赤裸々なエッセイになってしまったのは、そんな僕が心から求める一文を『夏の庭』にみつけてしまったからだ。

 

ぼくは書いておきたいんだ

物語の最後、「おまえ、大人になったらなんになる」と父に尋ねられた主人公の少年が、「何かを書きたい」と答えて、その理由を語る場面。

 

「ぼくは書いておきたいんだ。忘れたくないことを書きとめて、ほかの人にもわけてあげられたらいいと思う」

「いろんなことをさ、忘れちゃいたくないんだ」

 

きっと、多くの人にとっては大したことのないただのセリフかもしれない。しかし、僕にとっては違う。この一節、この一文と出会うために二十数年ぶりに『夏の庭』を手に取ったのだと確信している。

 

記憶は、忘れる。

大切な思い出は、消える。

だからこそ、書き留めておきたいのだ。

僕にはいま、〈書く〉という行為が必要なのだ。

大切なことを忘れないために、そして、自分と出会うために。

 

心に書き留めたメモ

中学生の僕の心を引っ掻いた小さな傷は、拭うべきトラウマだと長らく思っていた。でもそうではなかったのかもしれない。未来の自分に宛てて心に書き留めておいたメモだったのかもしれない。今はそう思える。

 

〈夏〉と〈本〉と〈死〉

『夏の庭』のあと、また本とは縁のない生活に戻った。読書感想文の挫折で、本への興味が急激にしぼんだせいもあったと思う。漫画や雑誌を抜きにして、初めて自分で本と呼べるもの買う日が来るのは、高校生3年生の夏まで待たなくてはいけなかった。

 

夏休みに隣の駅の紀伊國屋で目に入って購入したその本は、「墜落遺体」という日航123便墜落事故を扱った本だった。遺体の身元確認班を指揮した警察官が書かれたノンフィクションは、のほほんと育った高校生には衝撃的すぎる死と遺体の描写に溢れていた。いまになって客観的に考えると、それまで全く本など読まなかった息子が、唐突に「墜落遺体」などというインパクトの強い本を買ってきたのだから、両親はさぞ不思議(を通り越して心配)に思ったに違いない。

 

 

この本も、僕の人生に大きな影響を与えてくれた。それは、小学校の図書館にあったような子供を怖がらせる怪談本とは違い、娯楽として底知れぬ恐怖心を煽るホラー映画とも違い、実際起こった紛れもない現実、500名を超える死とそれに立ち会った人々の記録であったことが、何よりも当時の僕には生々しくて恐ろしかった。穏やかな湾を出て、初めて外海に出たような感覚で、僕はこの時も心の中で立ちすくんでいた。死について、生について、人生について、一皮むけたように真剣に考えるようになったのは、その本がきっかけだった。

 

僕にとって〈夏〉と〈本〉と〈死〉は、人生を導く何かの意味を持っているように思えてならない。

 

終わりに

今回の記事は書評というよりほぼエッセイだ。僕のことを知らない人にとっては「ただの自分語り」にしか見えなかっただろうし、僕のことを知っている人ならば「黒田くんの知られざる過去の秘話」として楽しんで貰えたかもしれない。

 

当の本人にとっては、長らく忘れていたタイムカプセルの中から出て来た昔の思い出話を、再び忘れてしまわないように書き残した記録だ。“中学生の僕”と“今の僕”をつなぐ、時を隔てた日記のようなものとして書いた。これが何かにつながるかはわからないど、きっとまた次の何かにつながって行くのだろうと期待したい。

 

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「もしかすると、歳をとるのは楽しいことなのかもしれない。歳をとればとるほど、思い出は増えるのだから。そしていつかその持ち主があとかたもなく消えてしまっても、思い出は空気の中を漂い、雨に溶け、土に染みこんで、生き続けるとしたら……いろんなところを漂いながら、また別のだれかの心に、ちょっとしのびこんでみるかもしれない。時々、初めての場所なのに、なぜか来たことがあると感じたりするのは、遠い昔のだれかの思い出のいたずらなのだ。」

 


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